晴れときどき育児 〜適当気ままに発達障害児を育てよう日記〜

ADHDとアスペルガーの複合型と診断された息子にーにと、定型?の娘ちょろを育てる二児の母。意識していないと子供のことを忘れてしまうため、ブログはじめました。よろしくお願いします。

息子のこと 〜幼児編〜

乳児のころ、息子はあまり手のかからない子でした。
おとなしく、人見知りもせず、慎重な性格なのか、危ないこともほとんどしませんでした。
私はその頃、時短のフルタイムで働いていて、息子は保育園に預けていました。
体の発達も問題なく、「やや言葉が遅いかな?」くらいで、私は育児をなめていました。

私の母は五人の子供を育てたパワフルマザーで、辛い経験をしたため、
「男を信用するな。男に期待するな。いざとなったら独立できるよう子供と自分の食い扶持は自分で稼げ。育児は保育園や学校にまかせてあなたは仕事することに専念しなさい」
と口癖のように言っていました。
人の言葉をストレートに受け取る私は、それを実行し、こどものことをあまり考えませんでした。

しかし、当然のことながら、そのしっぺ返しのように、息子が1歳半あたりから育児が難しくなります。
息子が変なこだわりを見せるようになったのです。

こちらはさっさと家に帰りたいのに、横断歩道の白線を、あみだくじみたいになぞって行かないと帰らない。
他にも「これをやってからでないと、あれをしない」という息子ルールが次々と現れ、今思えばひどいことをしたと思えるのですが、当時はイライラさせられっぱなしで、息子をひっぱたいて引きずって連れて帰る毎日でした。

今となってはわかりますが、あれは自閉圏の子特有の「こだわり」だったのでしょう。
兆候は他にもありました。やがて二歳になり、言葉が話せるようになると、息子は誰にでも話しかけるようになりました。
帰りの暗い夜道、怖い顔のおじさんに話しかけて血の気が引いたこともあります。
そして保育園では、お昼ごはんなどの時間が守れない、今やっていることを納得いくまでやってからでないと次のことに移れない、という話をされるようになりました。
自分のやっていることを邪魔する人に攻撃的な態度をとるようになってきていることも。

当時、旦那も私の母も心配しすぎだと言いました。こどもなんてみんなそういうものだと。
でもこども同士で遊んでいても、息子は相手の状況かまわず、まず話しかけ、つきまとい、一緒に遊ぶように見えておもちゃを独り占め。相手の子を最終的に泣かすか、相手の子が引き気味に逃げていくという事態が何度も起こり、いたたまれない思いで他のママとの交流を避けるようになっていった私は、気づけば孤立していました。
悩みを打ち明ける相手もいません。気分転換の趣味を持とうとして、しかしこどもに時間を縛られて満足にできないことからさらに苛立ち、過剰に息子を怒鳴る毎日でした。

そんなある朝、息子が玄関の前で、声をかけても動こうとしないことがありました。
ぼーっとした顔で何を言っても返事をしない。苛立ち、「何してんの!」と頭を叩く私。
すると息子は声もなくその場に崩れ落ち、頭を壁にぶつけながら痛いとも言わず床に倒れこんだのです。

慌ててすぐに病院に連れていき、「おそらく小てんかん発作」ということで、脳波などを検査することになりました。
意識をなくす薬を飲ませ、不安からパニックになる息子を抑え付けていると、ふいに涙が溢れてきました。

──こんなに小さい子をこんなになるまで不安がらせて、一体私は何やってたんだろう──

その時はじめて、私は息子が大きなストレスを抱えていることに気づいたのです。

息子のことをきちんと見つめなくては────

結局、脳に異常は見つかりませんでしたが、反省した私はそれから仕事を辞め、息子は幼稚園に転園。こどもとの時間をたっぷり取るようになりました。

だけど、幼稚園に移った息子は、次々と問題行動を起こします。
いえ、ようやく問題点が明るみに出たといったところでしょう。
集団行動がとれない、きちんと席に座っていない、ひっきりなしに喋っている。それらを注意してくるこども達に暴力をふるうようになっていったのです。

園から毎日のように電話がきて、しまいには園長先生から「よその園にうつられては?」とまで言われました。
しかし他に定員が空いてる園はありません。どうかいさせてくださいとお願いし、通園を続けました。

当時、ヒントがまったくなかったかというと、そうでもありません。
何度も園の先生から、「どこかに相談されましたか?」と促され、育児相談室のようなところに行って検査を受けたりもしました。
だけど1対1で、質問形式の会話なら問題なくこなせる息子。
特に問題なしとのことで、医療機関など紹介されることはありませんでした。
その頃「発達障害」の知識を得た私も、息子がそれに該当するのではと疑い始めてはいましたが、「大丈夫。こどもってこういうものよ」という周囲の言葉を信じ、療育にたどり着くことはありませんでした。