晴れときどき育児 〜適当気ままに発達障害児を育てよう日記〜

ADHDとアスペルガーの複合型と診断された息子にーにと、定型?の娘ちょろを育てる二児の母。意識していないと子供のことを忘れてしまうため、ブログはじめました。よろしくお願いします。

息子のこと 〜小学三年生から現在まで〜

通級が始まり、初めて自分以外の発達障害児のママと出会いました。
驚いたことに、どのママも、療育機関、支援機関、保護者の会、コミュニティー、色んな情報を持っていました。
私が喉から手が出るほどに欲しかった情報がいっぱい溢れています。
ママたちの会話はとにかく新鮮で、目から鱗で、私は早速色んな機関に電話をかけました。
 
今からでも遅くないはず。息子に療育を受けさせてあげたい。
 
しかし、どこも定員いっぱい。小学生は幼児から受けていた子が延長で受けられるものなので──などと理不尽な断られ方もされたり。民間の支援団体も、幼児のサポートはあるのですが、小学生のは少なく。あるとしても高額。我が家には厳しいです。

 

結局、どこにも入ることはできませんでした。

 

かろうじて保護者の会には入ることができたので、そこで更なる情報を拾うのが唯一の希望でした。

 

一方、学校での息子は、段ボールに隠れることを許可されたことで、少しずつ心の安定を取り戻していっていました。
でもまだ授業を受けることはできません。教室には入るものの、一時間ともたず、教室を飛び出して段ボールの中に逃げ隠れます。
息子の様子を見るため、私は何度も学校に足を運びました。
新しく始まった習字の授業、道具の説明を聞いていられず、癇癪を起こして教室を飛び出してきたり。
シーンとした教室の中、にゃあにゃあ言いながら、授業を受けるこども達の間をハイハイしたり。扉から扉へぐるぐる回り。通風用の下窓からバァッと顔を出して他の子を驚かす。
そんな息子の姿をいっぱい見ました。
まるで赤ちゃん返りです。ちょうどその頃、妹のお口が達者になってきて、「僕のママなのに!」と私をめぐって口喧嘩をすることが増えてきていたので、やはり赤ちゃん返りも混ざっていたのでしょう。
少しでも注意してくる子には乱暴な態度。嫌いな子を追いかけ回す。振り回した上靴袋が他の子に当たる。
ただ談笑していただけの子を、自分のことを笑ったと勘違い。黒板消しを投げつけて怪我をさせたこともあります。
 
自分の気持ちがわからない。どうしたいのか言葉にできない息子は、必死に行動で訴えていたのでした。
どうしたらいいの。僕にはできない。みんなが遠い。僕を見て。みんな、僕と同じように笑って。
 
私はというと、療育を受けれる場所が見つからない、息子は日に日におかしな行動をとる、息子が乱暴した子のお母さんに毎週のように電話で謝罪、「なぜ学校はこんな子をうちの子と同じクラスにしたのか、理解できません」と言われ、追い打ちのように私の母からは「お前は息子を発達障害にした愚かな母親だ!」の罵りメールの嵐。
息子を包んであげなきゃいけないのに。でてくるのは叱りの言葉ばかり。
この頃の私は精神的に追い詰められ、毎日泣いていました。奇声をあげながら壁を蹴ることもありました。

 

だけど、私は戦わないといけません。息子はもっと苦しいのです。
 
「もう療育には頼らない!」
 
とうとう私は視点を変えることにしました。
私が先生に、生活の、人付き合いの、人生の見本になるのです。
 
内容の薄いペアレントトレーニングの本を参考に(この頃は本が少なかった)叱ることをできるだけ減らし、こどもに対する接し方を学ぶため保育士の勉強をしました。
2歳の娘に息子と同じ轍を踏ませないよう赤ちゃん広場へ足を運び、普通のママ友を作って育児情報を収集、こどもに色んな体験をさせる親子遊びサークルを立ち上げ運営。おはなし会のボランティアもやって、息子を連れていき、私の働いている姿を見せたこともあります。イベント用の小物の作成など、息子にもできることがあればどんどん手伝わせました。

 

徐々に徐々に、育児とはどういうものか、教育とはどういうものか、こどもに必要な環境とはどういうものか、漠然とながらわかるようになってきていた私でした。
笑顔も優しい声も出せるようになり、こども達が甘えたがったら存分に甘えさせるようになりました。
説教をやめることはできませんでしたが・・・・(苦笑)
 
学校では担任の先生と毎日ノートで息子の状況を伝えあい、実際学校に行って息子の様子を観察しては原因を推測し、対処法を担任と話し合いました。
支援学級に行かせて欲しいと頼みましたがそれはあえなく却下。学校もいっぱいいっぱいです。
だけど担任の先生による息子の居やすい教室作りのおかげで、6月には、かなり息子の癇癪は治まってきました。
息子の精神が安定してくれれば、息子自身を鍛える段階に移れます。
これは時期尚早だったかもしれませんが、私は息子を鍛える場として剣道を選び、最初は竹刀10回振ったら帰る、のレベルから徐々に、参加させる時間を増やしていきました。
学校にはいつまでも私が付いていくことはできないけど、習い事ならずっと側にいれるからです。
息子は嫌になったら私の膝で休み、元気が出たら練習に参加するという姿勢で、剣道を続けました。
 
──それから、嵐のような日々が駆け抜けていきます。
忘れてしまったこと、書ききれないことがたくさんありました。とにかく毎日忙しかったことは覚えています。

息子は本当に頑張りました。
四年生になり、一日の半分は教室にいられるようになりました。
連絡帳を書ける回数が増えました。苦手な漢字のテストを受けました。
参加できる授業がひとつ増え、ふたつ増え、音楽と体育以外の授業は席についていられるようになってきました。
夏休みは苦手分野の猛特訓。教えればなんでも挑戦するようになってきていました。

 

ゆっくりと、ゆっくりと、息子は意欲を取り戻していってくれたのです。

 

そして現在五年生。

 

もうほとんど教室を出ることはありません。
宿題は毎日やります。テストはきちんと受けます。
まだ授業を聞くことは難しいけれど。提出物を忘れることもよくあるけれど。展示物は息子だけ全然なかったりもするけれど。

 

毎日元気に、学校に通っています。

 

小学校卒業までには、授業をきちんと受けれることを目標に、頑張ると約束しました。
中学は私立を目指すことにし、週二日、塾に通い始めました。
この前、剣道の大会に出場しました。練習にはフル参加しています。
 
得意は理科、算数、特に図形。苦手は国語、音楽、体育、文字を書くこと。
尊敬する人はエジソン
 
夢は、ゴミを燃料に走るエコな車を作って、地球を温暖化から救うことだそうです。
 
 
以上、息子のことでした。