晴れときどき育児 〜適当気ままに発達障害児を育てよう日記〜

ADHDとアスペルガーの複合型と診断された息子にーにと、定型?の娘ちょろを育てる二児の母。意識していないと子供のことを忘れてしまうため、ブログはじめました。よろしくお願いします。

息子のこと 〜年長から小学生編〜

他の子から嫌われることの多いにーには、特定の友達をつくることができませんでした。

 

幼稚園ではいつもひとり。サッカー部に入れたおかげで、昼休みの園庭でサッカーするようにはなったけど、他の子にボールを取られると怒るので、他の子とは一緒に遊んでいるようで別々に遊んでいました。

 

息子自身は、ひとりが好きなわけじゃありません。遊んでいる子を見ると嬉々として近寄っていきます。
「入れて〜!」と明るく輪の中に入っていく。だけど、いつのまにかみんなに置いていかれてひとりぼっち。
近所の公園では男の子集団から、
「もうお前とは遊ばねーよ!」
「俺、あいつ嫌い、なに言ってんだかわかんねーし」
と真っ向から拒否されてしまいました。
それでも何度も輪の中に入ろうとしていた息子でしたが、年長の時、とうとう心が折れてしまいました。

 

「もう僕にはママだけでいい!ママとしか遊ばない!」

 

泣きながらそう叫んで家に閉じこもるようになった息子。
私もどうしたらいいかわかりませんでした。
ただひとつ言えるのは、これ以上人づき合いを無理にさせたら、息子の心が壊れてしまうということ。

 

それからはずっと家で私が遊び相手になりました。
今でもママ大好き、ママの言うことは絶対!の姿勢が崩れないのは、この頃のことが基盤にあるからかもしれません。

 

やがて小学生になり、最初の一年はあまり問題はありませんでした。
息子以外のこども達も落ち着きがなく、「ピカピカの小学生」という言葉に意気込んで、宿題もチャレンジも足りないとばかりに勉強をこなす息子。授業も張り切って受けていました。
相変わらず休憩時間はひとりでしたが、当時流行っていたベイブレードやゲームを通じて、再び他の子と関わることもできるようになってきていました。
私が教えていた折り紙がめきめき上達し、他の子に感心されるようになってきたのも、息子の心を元気にしたようです。

 

しかし、一年生も終わりに近づくころ、他のこども達との差が目立つようになってきました。
授業中立ち歩くのはもはや息子だけです。先生の説明をさえぎってまで発言しまくるのも。

 

「やっぱりおかしい」と思った私は、一年生の終わり、担任の先生に、「息子は発達障害かもしれません」と初めてお手紙を書きました。
発達障害の本を読んで、少し知識がついてきたのです。
といっても、特性などはわかったものの、支援をしてもらうという考えにまでは及びませんでした。
当時はまだ、ママが対処する以外の具体的な支援法や支援機関についてまとめた本は少なかったのです。

 

息子が発達障害だとして、どうしたらいいかよくわからないまま、5月になりました。
一年の担任の先生からは返事がないまま、息子は二年になっていました。
そして迎えた家庭訪問の日。とうとう転機を迎えます。

 

この日のことをよく覚えています。
新しい担任の先生は年配の女性でした。

 

「息子さんが安心して学校生活を送れるよう、これからできるだけサポートしていきます」

 

驚きました。まさかそう言ってもらえるとは夢にも思っていなかったのです。
学校に告白したものの、幼稚園時代の園長先生を思い出し、いつ学校から追い出されるかとビクビクしていた私でした。

 

支援してもらえるんだ。
息子を助けてくれる人がいるんだ。わかってもらえるんだ。

 

この時から、漠然とですが、私は戦おうという気持ちになったんだと思います。
何と戦うのかと聞かれたらよくはわかりませんが、多分、旦那と。母と。世間と。そして自分の中にいる頭の固い自分と。
他の子と同じようにさせなきゃいけない、という呪縛からこの時やっと、私は解き放たれたのです。

 

その後、担任の先生とあれこれ相談する中、通級指導教室(情緒クラス)に通うことを持ちかけられました。
無知な私は、身近に支援機関があることすら知りませんでした。
ようやく、息子と療育の道がつながったのです。

 

早速療育センターなどに電話しました。しかし受診まで半年以上待たなきゃいけません。どこも人手が足りない状況でした。
本やウェブで勉強はしたものの、何もできないまま秋になりました。
息子は二年生になってからまた他の子と衝突することが多くなり、授業中反抗的な態度を取るようになっていました。
診断を急いだ私は、もう療育センターを待ってられないと民間の専門病院に行き、息子に検査を受けさせました。

 

結果、やはり「ADHDアスペルガーの複合型」。
FIQは132と高いですが偏りが大きく、他の子と理解の仕方が違うということがわかりました。

 

通級教室に通う許可が下り、三年生、いよいよ通級が始まりました。
新しい担任の先生は養護の経験が少しある方で、息子を全力でサポートすると言ってくれました。
ようやく本格的なケアが始まろうとしていたのです。

 

───だけど、ぎりぎりでした。

 

息子は三年生初めての日、「ここに入りたくない」と教室の中に入ることを拒否。それから数週間、別室の段ボールの中で過ごすことになったのですが─────自分を抑えられないほどに苛立ち、もはや大きな殻なしでは学校にいられなくなっていました。

 

息子の二次障害は、もうそこまで来ていたのです。